京橋会館 #04

広島市の戦後復興期の集合住宅、京橋会館の一般公開が2011年8月13・14日に行われ、私は初日に行ってきました。別の場所に寄ってから夕方近くに現地を訪れたところ、さっそく外観を見学している人達がいます。


中庭の様子。それなりの人数は集まるだろうと予想していましたが、私が思っていた以上に来ていました。ほとんどが一般の方々。裏通りにあるとはいえ昔から建っていたので、地元のみなさんは知っていて何となく気になる存在だったようです。駐車場と化してからは交流の場にはあまり使われなくなったようですが、最後に中庭本来の姿を取り戻したといえます。

見学者の層は老若男女に関係なく全世代に渡っていました。


メゾネット住戸のひとつを使って京橋会館を説明するパネルを展示。建築デザインや計画学についての詳しい解説です。さらにこの2階では団地啓蒙映画『団地への招待』を上映していて、みなさん熱心に観賞していました。

見学ツアーの模様。一般公開を主催した「アーキウォーク広島」の方の説明を見学者が聞いているところ。


ところで以前から不思議に思っていた縦長窓。この種の開口部はだいたい階段の踊り場に設けられるものですが…

京橋会館では踊り場に接して何かの部屋があり、縦長窓はこの中に付いています。踊り場なので他の居室とは半階分、床レベルがズレています。この部屋は倉庫とのこと。連続窓はモダニズム建築の基本的なデザイン要素ですが、暗くても構わない倉庫に縦長窓を設けるという見た目優先のデザインをやっているところに、どうしても連続窓を付けたい!という設計者の心情や、モダニズム建築で広島を復興するのだという意気込みを感じます。
見学ツアー中にうかがったところ、一部の倉庫には人が住んでいた形跡があるようです。電気はともかく、ガスや給排水は来ていないと思うのですが、どうやって生活していたのでしょうね。もしかしたら、別の住戸が本家で、住戸がかなり狭いので、個室を確保するため倉庫を別室に使っていたのかも。
改めて京橋会館を簡単に説明すると、戦後間もない1954(昭和29)年に広島市に竣工した集合住宅です。建設したのは広島県住宅公社(現 広島県住宅供給公社)で、後に広島市が管理する市営住宅になりました。詳しくは下記をお読み下さい。
arch-hiroshima > デルタ東部 > 京橋会館
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京橋会館の建築的特徴は中庭型(ロの字型)の住棟です。これは欧米に多いタイプで、板状住棟の南向き配置が主流の日本では珍しい。さらに、中庭型は少数ながら日本にもないわけではないのですが、これに加えて京橋会館は街区型という点に最大の特徴があります。つまり街区(道路で囲まれた1ブロック)を建物で囲む形状です。実際は街区を完全に囲んではいないのですが、街区型建築を造ろうという意図は読み取れます。
日本で明確に街区型建築による都市開発を行った事例は、1990年代の幕張ベイタウン(千葉県)くらいでしょうか。1棟だけの囲み型に限定しなければ、同潤会清砂通アパートメントや、戦後の横浜市の防火建築帯も挙げられますが、それにしても少ない。
そこで気になるのが、京橋会館の設計者は何の影響を受けて街区型にしたのかということ。そもそもこの建物は、道路建設に伴い移転を余儀なくされた店舗の共同化事業 ※ であり、道路に面する店舗が最も多くできるという実直な理由から街区型になりました。
では、設計者が単独でこのプランを考えたのか、それとも同潤会アパートなり欧米の事例を参考にしたのか。ある論文では同潤会の影響を受けた可能性に言及していて、ウィキペディアにもそのようなことが書いてありますが、設計者不詳につき今のところその確証は得られていません。

京橋会館は街区型を採用しても移転店舗すべてを道路側に配置できず、一部は中庭に配置されました(青い庇が架かっている一帯)。集合住宅の中庭はおおむね住民専用の性質が強いのに対して、京橋会館では部外者の立ち入りを積極的に認めていて、住民と客が入り交じる公共空間が生じていたのです。これは本当に珍しい。
年を経るにつれて店舗は衰退し、中庭はコミュニケーションスペースとしては定着せず駐車場と化してしまいますが、竣工当初における中庭の公共空間化の試みは大きく評価されるべきでしょう。
※ 横浜市の防火建築帯をはじめ、戦後の不燃化・共同化事業の世界はかなり奥が深い。私は未読だがこの辺のことは『都市の戦後─雑踏のなかの都市計画と建築』(初田香成、東京大学出版会)に詳しい。京橋会館はこの系譜で分析すべきではなかろうか。
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