2019年4月 宮崎旅行05 戦争遺跡
2019年4月の宮崎旅行の報告、次は戦争遺跡編。宮崎空港の前身は1943・S18に建設された日本海軍赤江飛行場だ。旧軍時代の掩体壕が、空港のすぐ近くとやや離れた住宅街の2群に分かれて現存している。写真は空港付近の方。 pic.twitter.com/epip1Kez3o
— タケ@ALL-A (@take_all_a) 2019年10月17日
現地の説明板。宮崎空港の西端には3基の有蓋掩体壕が現存している(説明板上の写真の番号2・3・4)。冒頭の写真は手前が掩体壕(2)で左奥が(3)。(2)については周囲に細い通路が整備され、フェンスの外から見学できる。 pic.twitter.com/UpLWCTCGgk
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フェンス越しに撮影した掩体壕(2)の内部。 pic.twitter.com/22L3IoKndv
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左奥が掩体壕(2)、右が(3)。周囲は農地なので勝手に入らないこと。 pic.twitter.com/2uwrLCz03D
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掩体壕(4)は接近不可。 pic.twitter.com/TTF8tLc2sK
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旧軍の飛行場を前身とする民間空港は多いが、宮崎空港のように掩体壕と現在の滑走路や航空機が1枚に収まるところは案外少ない。 pic.twitter.com/uHY6Y6YiY6
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こういう構図が撮りたかったんだよ。 pic.twitter.com/lSfSp9sHMR
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2019年4月の宮崎旅行で見た戦争遺跡の続き。宮崎空港周辺には、前述した掩体壕の他にこのようなカマボコ型のコンクリート構造物もある。対空機銃弾薬庫だ。残っているのは弾薬庫だけで、機銃を設置していた基礎は無い。 pic.twitter.com/i4gEEd6evN
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現地の説明板。 pic.twitter.com/7FIMjuXKl4
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後でネットで調べたところ、説明板に記載された2基の他、近くに別の2基が現存するようだが、事前調査不足でそちらは見ていない。 pic.twitter.com/i1D3W9wyHA
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両側面に開口部が2カ所ずつ。 pic.twitter.com/UuZS0SgJtm
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農地の中にあるので接近はできない。内部空間は最も高い中心でさえドアの高さ程度しかなく、弾薬庫としては使いづらいと思うが、防御性を優先したのだろう。もしかしたら床は下がっているのかも。 pic.twitter.com/bKFdM06YDL
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パラペットが付いているので、掩体壕と同様、敵機から発見されにくいよう土を被せて擬装していたと思われる。 pic.twitter.com/jsz7ZsdeS6
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2019年4月の宮崎旅行で見た戦争遺跡の続き。軍事施設ではないものの、戦前の大東亜共栄圏構想を示す象徴として、やはりこれは外せない。八紘之基柱(あめつちのもとはしら)/ 八紘一宇の塔(日名子実三、1940・S15、宮崎市)だ。 pic.twitter.com/ydWhMex456
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高さ36.4m(120尺)。この数値が基壇を含むのかどうか分からないが、いずれにせよ石塔としては相当な高さだ。完成は1940・昭和15年=皇紀2600年。その記念すべき年を祝う事業として建てられた。 pic.twitter.com/KdFtUKrE6X
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設計者は彫刻家の日名子実三(ひなごじつぞう)。報酬はいらないから自分にやらせてほしいと名乗り出た。彼は日本サッカー協会のシンボルマークである八咫烏(やたがらす)のデザイナーとして知られる。 pic.twitter.com/sr9a5wPESd
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塔のデザインは、日本書紀にある天皇の盾や、神籬(ひもろぎ、地鎮祭などの神事で用いられる神様の依り代)がモチーフらしい。元ネタの盾がどういう形状か、検索したが見つけられなかった。アールデコに似ているとの印象を受ける。時代的にはアールデコの方が早いが、偶然だろうか。 pic.twitter.com/W7hlastUjd
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「八紘一宇」の文字と、塔の四方に置かれた立像のうち武神である「荒御魂(あらみたま)」像(写真左)は、戦後にGHQの命令で撤去された。その後、1962・S37に荒御魂像が、1965・S40に文字が復元される。 pic.twitter.com/a8hC0laIKC
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「平和の塔」への改称は1957・S32。つまり復元は改称後となる。戦前・戦中の歴史を批判的に伝える目的ではなく、復古主義的な行為。一方、表向きは今も「平和の塔」という名前を使っている。この屈折した状態には気を付ける必要がある。 pic.twitter.com/ZDV3kjg2eI
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補足。ウィキペディア「八紘之基柱」の項目に記載された日名子実三の説明文によると、塔本体は鉄筋コンクリート(RC)造である。基壇は石造 / 組積造のように読めるが、しかし少なくとも塔の直下はRC造でなければ成り立たないはず。 pic.twitter.com/SyGPGAJvzf
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基壇は塔建設のために日本や世界各地から収集した石材が使われた。全部の石がそうではないが、前面には送られた石材が集中的に使われている。大きさも種類もバラバラなので、パッチワーク状というユニークな石積みになっている。 pic.twitter.com/nLoOYxjJ5C
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龍?が彫られた石材は「南京日本居留民会」から送られたもの。どこを切り取ったのだろうね。その下の石は山西省から。 pic.twitter.com/metuN9h1ZC
— タケ@ALL-A (@take_all_a) 2019年10月26日
中山陵(孫文の墓)の石材も使われているらしいです…https://t.co/FiAbT0C1fv この麒麟?の石材は国宝級の物の可能性があるようでhttps://t.co/tMV0R3DMnG
— 石炭村の工作員 (@Braunite) 2019年10月26日
孫文の墓を削るとはなんて罰当たりな… まあ、南京の方もいまさら戻すより、負の遺産として現状維持が望ましいというのが私の考えです。中国には謝るしかありませんけど。
— タケ@ALL-A (@take_all_a) 2019年10月26日