神子畑選鉱場跡02
神子畑選鉱場跡(兵庫県朝来市)の続き。選鉱場の敷地内にムーセ旧居と呼ばれる建築がある。正式名称は旧神子畑鉱山事務舎。元々、生野鉱山で外国人技師の宿舎として1872(明治4)年に建てられたもの。我が国最初期の西洋建築物だ。構造は木造。様式はコロニアル。 pic.twitter.com/Ug0cm0MOKS
— タケ@ALL-A (@take_all_a) 2019年4月19日
その後、1887(明治20)年に神子畑に移築されて事務所や診療所に使われた。生野時代にムーセという鉱山技師が住んだとされることからムーセ旧居と呼ばれるが、実際にこの建築に彼が住んでいたかどうか、史料では確認されていない。 pic.twitter.com/YKcG71u4tG
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修復工事が施された後、現在は神子畑選鉱場の資料館などとして活用されている。 pic.twitter.com/4dTn1D3MgL
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館内に展示されている当初の軒瓦。菊の御紋入り。以前に述べた通り、生野鉱山は明治20年代に宮内省御料局の所管だった時期がある。それに伴い、神子畑鉱山も御料局の生野支庁神子畑支局として皇室財産だった。この瓦はその当時のものと思われる。 pic.twitter.com/fXaKz4jbvi
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修復工事後の瓦にも菊の御紋がちゃんと入っている。アップで撮り忘れたので全体像から拡大。 pic.twitter.com/3YY29ukg0p
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館内の展示物から、神子畑選鉱場と周辺の集落の模型。 pic.twitter.com/xdonhJBNaz
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神子畑選鉱場の模型、その2。 pic.twitter.com/exdRNMkSqq
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神子畑選鉱場の模型、その3。建屋内にあった選鉱設備の精密な模型。 pic.twitter.com/7C3PAfcVoY
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これ、すごい力作だし、産業史・技術史的にかなり貴重では。 pic.twitter.com/ClwZskp9fW
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ムーセ旧居の古写真。馬車鉄道が写っている。キャプションの通り、神子畑鉱山から生野選鉱場(現 三菱マテリアル生野事業所)まで鉱石輸送ルートがあり、1891(明治24)年にレールが引かれて馬車鉄道になった。 pic.twitter.com/qb5SGTA6d6
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先日の繰り返しになるが、日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」は兵庫県の鉱山と輸送ルートで構成された産業遺産で、明延〜神子畑〜生野の輸送ルートを「鉱石の道」、生野〜飾磨津(現 姫路港)を「銀の馬車道」と呼ぶ。 pic.twitter.com/W4G3J2O1au
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国内に2基現存する全鋳鉄橋は、神子畑~生野のルート上に建設された5基のうちのふたつだ。竣工は1885(明治18)年。ただし、羽渕鋳鉄橋(写真)は水害で流された後、近くの別の場所に移築復元されている。なお、これより古い東京都の八幡橋(旧 弾正橋)は錬鉄と鋳鉄の混合。 pic.twitter.com/8i0u3xMXr4
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羽渕鋳鉄橋は河川敷に移築されたので普段は下に水が流れていない。おかげで下から見ることもできる。 pic.twitter.com/sIM1WTg9Jp
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もうひとつの神子畑鋳鉄橋も保存のため解体復元されているが、場所は当時のまま。写真奥に神子畑選鉱場がある。向こうに続く築堤の小径は神子畑~生野間の馬車道 / 馬車鉄道の跡と見ていいだろう。 pic.twitter.com/bAVtvIJW7C
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神子畑選鉱場跡の南側に残る石積みのひな壇。たぶん社宅街の跡だと思う。 pic.twitter.com/oOuqklqPzv
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その近くに旧神子畑小学校の体育館が残っている。山奥の小規模校にもかかわらず、意外なことにプレキャストコンクリート(PCa)造だ。設計者と竣工年は未確認。閉校は1972(昭和47)年。 pic.twitter.com/xd9DDox5Us
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グラウンド側の立面。窓に色が付いているのは #鉱山と道の芸術祭 における、わにぶちみきの作品。 pic.twitter.com/dhC3QA0Ar9
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反対側の立面。こちらの外観は当時のまま。建具は木製。渡り廊下の存在からこの撮影位置に校舎があったと思われる。 pic.twitter.com/SBpXH7xR3J
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柱・壁面パネルともPCa 。柱にしゃくり(溝)を入れてパネルを嵌めているようだ。固定に金物も使っていると思うが視認できなかった。同じ工法のPCa建築は明延鉱山にも存在する。 pic.twitter.com/zL2uwwjeJu
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パネルの剥離部分。鉄筋と骨材が見える。 pic.twitter.com/WmBSF5fyHp
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出入り口のガラス越しに撮影した内部。小屋組は鉄骨造。 pic.twitter.com/eg7hetjpfK
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神子畑小学校のグラウンドの奥にある祠。かつては山神社があったがそれは遷宮し、替わって不動明王の木像が祀られている。この不動明王は、神子畑鉱山時代に労働者に多発した肺病を静めるため近くの別の場所に設置されていたもの。 pic.twitter.com/HBuv8TZoAP
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参考記事:神戸新聞NEXT|連載・特集|銀の馬車道 鉱石の道|鉱山労働者の健康願った石灯籠と石碑 麓に移設 https://t.co/vsqYX68QC6
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神子畑選鉱場跡の続き。旧神子畑小学校のグラウンドから見えた光景。鉱石から鉱物・金属を選別した後の廃滓を積み上げた鉱滓ダムで、間歩谷ダムという。立ち入り・接近禁止。規制線の手前から撮影。 pic.twitter.com/dKzl0Yzjwy
— タケ@ALL-A (@take_all_a) 2019年4月20日
もうひとつ、鳥ノ奥ダムという鉱滓ダムもある。写真を撮っていないのでストリートビューで。朝来ICから神子畑選鉱場跡に向かう場合、最初に見えるのはこちら。ダムといっても水を貯えるわけではないので、「通常は河川法の定める狭義のダムには含めない」(ウィキペディア「鉱滓ダム」)。 pic.twitter.com/XFRasqISLE
— タケ@ALL-A (@take_all_a) 2019年4月20日
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