鳥飼炭鉱と運炭線02
福岡市城南区の鳥飼小学校の場所に昔あった鳥飼炭鉱と、そこから延びていた運炭線(石炭輸送の専用鉄道)について、ネット上で少し調査したことを以前にブログでまとめましたが http://t.co/HGnf1JU9Fu 、先日、現地を見てきたので報告します。
— タケ@ALL-A (@take_all_a) 2014, 8月 11
@take_all_a 画像は「今昔マップ」のキャプチャで、左は1920年代の福岡市の地形図、右はGoogleマップの現状。地形図には現在の鳥飼小学校や市営中浜町住宅付近に「んたきせ」の文字、そして西に延びる運炭線が描かれています。 pic.twitter.com/jju1TLrDcQ
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@take_all_a また、楕円内には運炭線の跡が残っています。これについては後述。
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@take_all_a 『福岡歴史探訪 南区・城南区編』(柳猛直、海鳥社)によると、鳥飼地区は明治時代から初歩的な炭鉱開発が行われ、第一次大戦による好況で本格化。石炭輸送は樋井川の水運と運炭線の2通りがあった。しかし事故が頻発して昭和初期には廃坑状態だったとのこと。
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@take_all_a そして1950・昭和25年、鳥飼炭鉱の跡地に鳥飼小学校が発足。当時はボタ山が残っていて、でこぼこの土地を職員と児童が一緒にローラーで整地したそうです。写真は現在(2014・平成26年)の鳥飼小。 pic.twitter.com/M7SOt8qEpL
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@take_all_a 鳥飼小学校の北、樋井川(左)と七隈川(右)の合流部分。前掲書によると、トロッコを馬で引く馬車鉄道で石炭をここに運び、木製桟橋から舟に投下していました。マンションの向こう側が鳥飼小学校/鳥飼炭鉱。 pic.twitter.com/d8eCLd1moq
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@take_all_a 一方、運炭線は鳥飼炭鉱から西に延び、鹿原山(祖原公園)や紅葉山公園の南を通り、現在の早良区藤崎(早良口交差点)付近で路面電車の軌道と合流。その先、前掲書では今宿まで輸送して船に積んだと述べています。私は姪浜炭鉱の桟橋と混同していないか疑問に思っていますが…
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@take_all_a 鳥飼小学校の西を流れる七隈川。この辺に運炭線の橋梁が架かっていたと思われますが、痕跡は何も無し。 pic.twitter.com/XV0oRMSrdt
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@take_all_a このキャプチャは先程の楕円形部分の拡大です。七隈川の西側、福岡市早良区城西2から曙1の付近。Googleマップ→ http://t.co/0R3XEsSv8k ふたつの矢印の先に運炭線の痕跡が読み取れます。 pic.twitter.com/XxGo36vz5C
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@take_all_a この写真は前ツイートの右矢印の現況。駐車場を斜めに横切るコンクリートブロックとフェンスが運炭線の痕跡です。まあ、現在は何の変哲もない風景ですが。 pic.twitter.com/t0aJ3wwsmD
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@take_all_a 塀の上に立って西方向を見たところ。左右のどちら側に軌道が通っていたかは分かりません。 pic.twitter.com/xLCRZOTftX
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@take_all_a 次は左の矢印。なぜかこの部分だけ私道の形で運炭線の跡が残っています。今昔マップと現況を照合して特定できたのはこの二ヶ所のみ。他にもそれらしい道路はあるものの確証は持てず。 pic.twitter.com/QmoLoPchFs
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